自殺は誰に起こっても不思議ではない。もちろん僕にだって。

タレントや役者の方の自殺が
時折報道されている。
心の病、体の病、金銭問題、
男女関係と原因はさまざまです。

『自分という人間を殺す行為=自殺』

江原啓之氏は「自殺をしてはいけない」と繰り返し説いている。

なぜなら我々の本性は【魂】という存在であり、
その魂を純化させるために
我々はこの世界に生まれ生きている。
(生きる意味とは魂の美化修行)
だから自殺して純化のトレーニング期間を、
自らの手によって縮めてはいけないというのです。

この苦しみの世において
その生きる意味を見い出せないなら、
自殺は、無という至高の快楽だろう。

もし生きる意味が
魂の修行だと思うのであれば、
生きることを欲せよ、
霊性の向上に励め。
(霊性とは魂のレベルのこと)

だがこの世界は何て苦痛に満ちたものでしょうか。

僕も時々「死んだ方がマシ」だと思う時もある。
(こんなブログを書いていてもです)
江原さんも若い時は自殺未遂を何度かしたらしい。
間髪で友人に助けられたそうですが、
その友人の一人は自殺した。
霊性の高い江原さんでも
自殺未遂の経験があるというのは

「自殺は誰がしてもおかしくない」ということです。

それほど自殺という誘惑は多いのです。
この世という修行は相当に厳しいのです。

ここで私は我が同胞である人間のために
エールを送りたい。

「死は怖くない」と。

なぜなら

・もし死んでも魂が不滅であるならば、
何も恐れることはない。
自分は在るのだから。
肉体から解放された自分が
本来性に戻ったわけだから。

・逆に死んだら魂など存在せず、
すべてが無に帰するものならば、
痛みも苦しみも悲しみも孤独も何もない。
楽。そうだろ?

だから死は怖くないことになる。
(私は前者を信じている)

肉体という負荷を魂に背負わせることによって、
魂のダンベルトレーニングを行なう。
すなわち肉欲からの解脱(げだつ)。

さまざま個性(他人)と触れ合い
ぶつかり合いの中で、
魂の一様性を学ぶ。
すなわち「我らの魂はすべて1つ」という霊訓の理解。

この二つを要するに≪愛≫を体得すること。
そうすれば死は生になり、生は聖になる。

昌清:苦しがろうがな、生きることじゃて。我らはいつもそばで見ておるぞ。けなげに励むことじゃな。

これ読んだ方、少し生きる力が湧いてくれたかな?

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