超絶なる公平性が、世界を温かく見守り、微笑みかけ、静かに横たわっている。

私が悩んでいた神学における問題の1つ

「神がいるならば
なぜ世界はこんなに不公平にできているのか?」

日本のように食料に困らない国と
アフリカの一部のように
飢餓に苦しむ国と、
どうして同じ世界であるのに関わらず、
生まれによって
これほどの差別があるのだろうか。
しかも何の罪もない子供が
苦しんでいるのを見ると
この世界の創造主は
なぜにこうも残酷なのだろうかと。

こんな無情な世界に
俺の求める神などおらぬ。
あるのは邪神だ。
邪神に支配されている自分に腹が立つ。
ならば死か!?

私は必死に神を求めていた。
無神論を結論づけるほど
私は強くなかったからだ。
なぜならもしそれを許したら
(死が無だと認めたら)
私は矛盾に引き裂かれる。
虚無の中を生きろというのか。

私は美しく整合の取れたこの世界が
邪神によって創造されたとは
どうしても思えなかった。

「不公平はなぜ存在するのか?」

まだ若かった私は理解できずにいた。
美輪明宏さんの言う『正負の法則』を。

確かに世界には飢えた子供がいる。
武器を持たなければいけない子供もいる。
スラムでゴミを漁る子供もいる。
方や日本ではいじめによる自殺や
受験地獄、登校拒否、成績評価がある。

学校を持たない国にそれらはない。

いや待てよ。
人生の幸も不幸も総合計算したら
人類誰でも同じくらいの数値になるのではないか。

先進国の基準で図られる
幸福の尺度が絶対ではない。
なぜならそれは物質的な価値観であるから。

少年犯罪が世間を賑わせている10年前だったか、
世界の子供たちを紹介するテレビ番組で
えなりかずきさんが
こう言っていたのを思い出す。

「学校へ行けることは幸せなことなんだ」

学校という1つを取っていても
置かれた立場や状況によって
白にも黒にもなる。

だとすると
飢餓で苦しむ子供や少年兵士、
ゴミで生活する女の子たちを
こちら側の判断で不幸だと決めつけるのは
失礼で間違いなことだ。
彼らの人生の中であっても
小さくていい、幸福を見出しているはずだ。

この世界には
人智に及ばぬところで
バランスが保たれている。
優しい女神の天秤だ。

神という一つの和をなす我らの霊魂に
差異があってはならない。
もしそれを放置し続けるなら
克服のための輪廻が次を待つ。

不平等はない。
無理解があるだけだ。

error: Content is protected !!