なぜ我々の魂(小我)は大いなる神(大我)から分離してしまったのか?

神は絶えず向上している存在だと
江原啓之氏も言っている。
私も同じ意見である。

向上とは「もっと感動したい」という願望である。

もっと感動を得たいというのは
もっと経験がしたいということだ。
(いろんな世界や次元があるので、地球での経験はそのうちの1つに過ぎない)

大いなる神は経験を積み重ねたいがために、
我々はその意志を想って
経験の場を作り出し(作り出そうと)堕天した。

当初の予定では我々は
「感動を得る」ために大我から分離したはずなのに、
いつの間にやら「快楽を得る」ためにその本来性を見失い、
大我(神我)へと帰還できなくなってしまった。

【物質の罠】

物質界というのは誘惑が多いのである。

物質で構成されるこの世での経験もまた、
神を感動させる立派な経験であるからして、
我々は胸を張ってこの世を生きればよい。
そして欲望からの解脱に日々を修行すればいい。
いつも大霊は見守って下さる。

ところでなぜ「感動」が「快楽」にすり替わってしまったのだろうか?
何があったというのだ、我らの魂の歴史において。

魂たちの乱痴気騒ぎ(物質の饗宴)があったと思う。
幾万年か得て、祭りの後…反省…再起、そして現在。

今の私にはそれしか分かりません。
江原さんならご存知でしょう。

その探求は続けていきますが、正直キツイです。

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