“痛み”すらも、神様からの“甘露”だと悟ること。

これが“究極の人生肯定”です。

『夜と霧』の作者V・E・フランクルはこう説く。
「私はそれでも人生にイエスと言う」と。

彼はあの“アウシュビッツ”から奇跡的に生還した
精神医学者、心理学者です。

どんな人にも物にも意味がある。
僕らが生きるこの人生にも意味がある。
この今を生きている自分に存在意味がある。
意味が与えられている自分に、意味を見出さなければいけない。

「“痛み”よ、これにも意味があるのだろうか?」
「ある!!」(内奥からの声を聴く)
「こんなのに意味なんてない!!」反論する。
「否、お前は今“痛み”に意味を見出そうとモガいている」
「意味を見出そうとする意志が、意味そのものなのだよ」
「俺をそんなに苦しめたいのか?」泣き叫ぶ。
「そうではない!!」
「意志することが意味なのだ。どうか分かってほしい」
「何を意志すれば、この“痛み”から解放される?」懇願する。
「ただひたすら“神”を意志すればよい!!」
「“神”が何なのかどうか教えて下さい」ひざまづき切望する。
「分からぬ子よ、“痛み”すらも“私の愛”なのだ!!」
「“愛”で心を満たせよ。すれば“痛み”は“痛み”でなくなる」

病苦における創作・葛藤劇でした。

「あぁ“病苦”よ!! お前をどうしても僕には理解できない」
「どうかこれと闘う勇気を私に授けて下さい」

こんなことを書いている僕も
“悟り”には至っていないのです。

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