なぜ「人生の真の意味と目的」を忘れて生まれるのか?

我々は物心ついた時(聖人でないかぎり)
「魂は神である」
「欲という不純物の付着を魂から取り除くために人生はある」
「愛を実践することで神に近づき、やがては輪廻を解脱できる」
ということを知らない。
つまり「人生の意味」を分からずにいる。
それはなぜなのか?

もしあなたは実力を計るためのテストにおいて
答えをあらかじめ知っていたら、
テストをする意味なんてあると思うだろうか?

初めから答えが分かっているなら
そんなのテストじゃねぇと思うはずです。
自分にどれだけ実力があるのかを試すテストなんだから、
答えが初めからインプットされていたら
テストの意味なんて全くない。

「懐疑心」

宗教者の中にも
「死=無」だと言っている人がいるらしい。
生まれる前や死んだ後が無であるならば、
その中間に位置する人生には意味がない。
それならば宗教にも意味がないということを
考え付かないのだろうか。

『我々は忘却という初期設定で、懐疑という洞窟の中を、真理という財宝を見つけ出す冒険家である』
(手にするまで何度も苦難にあう)
(一体いつまで涙の数を数えなければいけないのかな)

その財宝を手にした冒険者は
次に聖職者になると決意する。
聖職者の方が大変で、
受難の度合は冒険家をはるかにしのぐ。
(イエスキリストを見たら分かる)
(江原啓之さんやエドガー・ケイシーもそう)
(私はまだその準備ができません。怖いですから)

とにかく人生は悩む。
うん分かるとも、ほんとに。

「私は悩んでいる」ということは
「私は向上したいのです」ということだから、
おおいに悩みたまえ、人間たちよ、僕だって同じなんだ。
今この世にあって私たちは
そんな迷える人たちを見守ることができる。

人類愛という連帯感が湧いてきませんか?

error: Content is protected !!