無の間に挟まれた人生ならば、何を求めている? なぜ求める? 求める自分がなぜある?

「人生に意味なんてない。生きることと死んでいることは同じだ!!」

などと勢いよく叫んだとしても、
その後から何だか虚しさがスーっと湧き上がって切なくなる。

生まれる前も無、死んだ後も無であるとしたら、
一体私の人生とはどんな意味を持つというのだろうか?

もし人生とは無(無意味)であると決定したとする。
とたんに我々は何てみじめで哀れな存在に成り果ててしまうことだろう。
だが我々はどうしたわけか自身の内に“崇高なるもの”を求めようとする。

「人生に目的はない。人の存在は無意味であり無価値であり、生きることは讃えも慰めも全く通用しない」

これが真実なのだと結論づけをしたとしても
なぜ我々は“求める”があるのだろう、結論を出したというのに。
無なのだから、求めることは何の意味もなさないではないか。

果ては無である人生を生きた先に何かがあるというのか?
それは何だ?
なぜ無だと結論を下したはずなのに、なぜその“何”を求める?
そもそも求めている自分はどんな源泉があって“求める”が湧きだすのか?
結論という判決を言い渡す自分が生ぬるく、未練がましくも幻想を持ちたいのか?
それならばその幻想はなぜ脳にこびりついているのか?
あまりにも冷酷な無という事実から逃避したいのか?
逃げ出したいなら自殺を選べばいい。
(確実にその先に苦は無いであろう。肉体がないゆえ)
だが我々は求める。よりよくあろうと欲する。
なぜだ?
死という無を飛び越えようと必死にもがき生きようとする原動力。
そのエネルギーはどこから生み出され補給されるのか?
生物ゆえの脳機能が生存本能をむき出すのか?
生物の本能は死を超越したものであり、
生きる本能はあらゆる幻想を作り出し洗脳として埋め込むのか?
生きるということは幻覚という嘘か?
なぜそんなにまでして幻覚を体験しなくてはいけないのか?
嘘の中に生きなければならない理由をどんな土台が支えているのか?
土台そのものでさえ、洗脳の力により建造されたのか?
人類史を歩ませるために。
ならばなぜ人類は人類のストーリーを永続させなければならないのか?
終わりであってもいいではないか、幻想ならば。
だが子は産まれ、子孫は紡がれていく。
連綿と続く人類史は徒労という蚊の力でこんなにもダイナミックに動いていくのか?
徒労が歴史を引っ張るというのか?
それは引っ張ることができる力を本当に有しているものなのか?
何が我らを生へと繋ぎ止めるのか?
生きねばならぬと。

私がやっとたどり着いた答えを書き残そう。
今を生きる者のために。
人(人生)は、幻想でも幻覚でも嘘でも洗脳でもない。
徒労など初めからない。
人は不滅の魂であり、神の一部であり、愛の化身である。
我らすべては神を求め生きている。
過ちを踏み越えて、更なる至高へと目指しながら。

脳科学者は私をこう斬るであろう。
上記の連打する問いはそもそも前提として脳の仕業であり、
解を求めて悩み苦しむ私はナンセンスだと。

本当に私は愚なのか?

否、私は真理を公言する愚者である。

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