「善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや」の真意。

『歎異抄』の一節です。

意味:善人は天国へ行ける。(のなら)
悪人なら尚のこと(当たり前に)天国に行ける。
(上記の言葉は親鸞が説いたものではなく、
親鸞の師匠である法然の言葉だと言われています)

世間一般の方々は
自分を“善人”だとうぬぼれて
己の心に住まう“悪”に気づかないでいる。

「私は今までに人を傷つけたり、殺したりなんてしていない」
「悪いことは何もしていない。清廉潔白だ」
(果たしてそう簡単に言い切れるのだろうか?)

“悪”がなければ“善”もない。
“善”があるところに“悪”がある。
“魔”は誰の心の内にも住み着いているのだ。
(イエス・キリストだけは“魔”を打ち払った!!)

“善人”を気取る僕ら凡夫は、
己の“本性”を知らないでいる。
「すべての人間は一皮むけば“悪人”なのだ」というのに。
(なぜ“偽善者”と言わずに“善人”と言ったの?)

それとは逆に刑務所の囚人は、
自分は“悪人”だと自覚している。
(まるで獣のような無自覚な方もいると思いますが)
“悪人”だと強烈に自覚しているからこそ
“善なる光”を求める心が生まれる。
“神”にすがるしかないという強い決意が芽生える。

“神様”の許しを必死に追いすがる人間と、
自分は“善人”だからといって“犯罪者”を煙たがり、
無理解、無関心でいる(“神”に対する意識が足りない)人間と、
どちらに幸福が約束されるのか、考えてほしい。

『“悪”すらも“神”は許容し救い摂ろうとする』

自身の“悪”を徹底的に凝視し、
それから逃避しなかった親鸞は、
それだからこそ“アミダ様”を求める気迫が誰よりも強いと言える。
生涯を通して布教したのもこれが原動力であろう。
こんなに“悪”を認識し、
居直ったのは日本人では彼くらいではないか。
日本仏教界で果たした親鸞の功績は極めて大きいだろう。

追記:『アミダ』とはアミターバ(大いなる光)
アミターユス(大いなる命)のアミタから来ている。
『無量寿光』とも言う。

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