『他力本願』と『自力修行』の違いについて

簡単に言うと
“他力”とは別名“神様”のこと。
“自力”とは別名“人間”のこと。

日本仏教の歴史の中で≪鎌倉時代≫ほど
“他力”か“自力”か、について激しい論争があった時はない。
法然、親鸞、道元、日蓮、明恵など
日本仏教の代表者たちが勢ぞろいした時代でもあった。
(日本仏教が完成した時代でもあるが)

彼らは皆この“他力”と“自力”との間で格闘し
それぞれが後世に偉大な教えを残してくれた。

中世インドでは
“他力”のことを「猫の道」と言い、
“自力”のことを「猿の道」と言っていたそうです。
子猫は母猫に首を噛みくわえられながら運ばれる。
子猿は母猿の体にしがみつきながら運ばれる。
(子猫の方が楽だよね?)
(いや、ジタバタせずにいることも難しいよ)
(母猫に逆らわず“一体化”する行為だから)
(母猫への絶対の“信”がなくてはこうはいかない)

「他力か自力か」という問題は
片方に決められるものではないし、
片方のみだけに首をつっこんでもいけない。
コインの裏表のように切り離せないものだから。
バランスが肝心である。
だが50%と50%の割合などという“数字”で決まるバランスではない。
そこが難しいから皆さん両極端になってしまう。
数学的論理ではないから
議論にならない(してはいけない)ということである。
もちろん他力、自力とも否定してはいけない。

『僕たち“自力”である“人間”は
“神様”という“他力”の保護の下で
“自力”修業させて頂く、だけのことである』
(人間は単なる神の“操り人形”ではない!!)
(“操り人形”ならば人間の未来は決定されていることになるではないか)
(そんな人生なら誰も魂を磨かない。人生に意味がなくなる)

『大きな“他力(愛)”の力に包まれて
“自力(努力)”が実を結ぶ』

ありがたいことである。

僕たちはありがたく“修業”させてもらいましょう。ね?

コメント

error: Content is protected !!