イエス・キリストの転生の理由。『博愛』が足りなかったことへの後悔。

我々がこの世に生まれ堕ちた理由は
・己のカルマを解消するため
・欲や執着心から解放するため
である。
(要するに未熟な神の落第生だから)

ではなぜイエス・キリストのような愛そのものを生きた人が
この世に生まれなければならなかったのか?
どんなカルマがあって堕天したのだろうか?

私の初代ブログにはこんなことを書いたのを思い出した。
今読んでちょっとビックリ。
(2008年4月5日)

『イエスキリストは卒業の喜びを伝えたかっただけ』

イエスキリストになる前のイエスの魂は
この世でのカルマをすべて解消して
卒業資格を得られました。
つまり「この世という試練」を終えた人です。
仏教では“解脱者”と言いますね。

しかし我々の“先輩”であるイエスの魂でも
一つだけ未練がありました。
『人類にこの卒業の素晴らしさを教えたい!!』
イエスの魂は卒業したのにも関わらず、
(生まれ変わることをしなくてもいいのに)
もう一度イエスという人間の身体に己の魂を入れ(受肉)ました。

僕らの魂はもともとは神様(天国)の一部。
それが“我”を持ったばかりに
天国から追放(堕天)されました。
“我”が最初に地球に来た時、
物質をもてあそぶことに快楽を覚えました。
物質から物質に乗り移り(生まれ変わり)
次第に物質と魂がもつれ合ってしまいました。
つまり執着してしまったということです。

天国に戻るために“我”を無くさなくてはいけません。
そのための試練の場がこの世です。
この世に現れるということは
この世の物質界のルールに従わなくてはいけません。
僕らもそうですが、
イエスの魂も例外ではなく
物質の呪縛に囚われます。
これは大変危険なことです。
もう一度、物質と魂とがもつれ合うという
危険性をはらんでいますから。

この危険を冒してまでも
イエスの魂は“卒業”の素晴らしさを教えたかったのです。

僕らの先輩、イエスキリスト様
「僕が卒業できるまでに
あと何回生まれ変わらなくてはいけないのですか?」
その道は険しいのです。

この記事ではどうしてそんなにまで卒業の素晴らしさを
イエスは教えたかったのかの理由を書いていない。
が今の私には推測できる。
(推測に過ぎませんよ)
イエスがこの世で何を修行しなければならなかったのか。
何の執着心があってこの世に降り立つ決心をしたのか。
反省があるのです。
後悔があるのです。

それは『神の真理』を一部の理解ある人間にしか教えなかったという後悔があったからです。
イエス・キリストの説く
『博愛の思想』はこのことへの反省なのです。

仲間内だけで愉しんでどうなる!?
すべての人が神だっていうのに。
神は俺たちだけのものではないんだ!!
教えなければ!!
布教したい!!
頼む、もう一度地上へと生まれ変わらせてくれ!!

イエスのこの決意。
大いなる決心。
これがもし無かったのだとしたら…
私たちの歴史は暗黒時代のままだったかもしれない。

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