経験からもたらされる共通認識がハートを作る。

世界中に言語がどれくらいあるのか、
6000以上というのをネットで見つかる。

全部理解できる人はまずいない。
10個でもいない。
3個は探せばいそうですね。
2個のバイリンガルは多いと思います。

「では人は言語が違えば、
その人を理解することはできないのか?」

「つまり言語だけが意思疎通の手段なのだろうか?」

言語は音声記号に過ぎず、
意思疎通の道具としては不十分です。

以下【理解】について考察してみる。

人は感情の動物です。
ハート(心)の動きに従い行動にも表れる。

“喜怒哀楽”

「感情の起源が心(意識)にあるならば、
その意識はどんな基盤の上に成り立っているのか?」

『魂』です。

魂は自我意識を持っている。
その自我は絶えず他者とのつながりを求めている。
喜怒哀楽という感情体験を通して
他者と分かち合いたいと願っている。

なぜなら自我とは小我であり、
小我は人間すべての魂を1つにした大我と解け合い、
小なる自我から解放されたいからだ。

我々が言語という音声記号を生み出す契機となったのは
そんな小であるという寂しさ。
「寂しいの!!」という切ない叫びが言葉の本性であり、
言葉と言葉とでやり合う会話とは
慰めの確かめ合いである。
だから言語では他者を理解することは不可能となる。

「どうすれば【理解】できるのか?」

同じ経験を通じた共通認識が、
理解の手助けとなるはずだ。

共通認識とは体験済みのことであり、
経験後の意識からもたらされる感情こそが
理解という理性を培ってくれる。

理性はタネ。
経験という水をまき、
愛の花が咲く。

もしあなたが大きな花を咲かせることができるなら、
言語は必要ないのである。
ハートある行動で十分通じるのである。

error: Content is protected !!