「一粒の麦、もし死ねば豊かな実りをもたらすでしょう」の意味すること。

(ヨハネ福音書12章24節)
新約聖書の言葉です。

「一粒の麦が死ぬ」とはどういう意味か?

「一粒の麦」とは僕ら一人一人の「行動という種」を意味し、
「死ぬ」とは「人がその麦を食べずに我慢して土地にまかれる」
ということを意味します。
つまり「自己の欲望を犠牲にする」ということです。

「自己を犠牲にするような行動という種をまく」

逆に「麦が死なない」とは
「自分の欲望を満たそうとする行動」
と言い換えられますね。

一人の犠牲的行動が多くの人に感動(実り)を与え、
感化させる。
もし犠牲がなければ、
誰の心にもハート(実り)が伝わりません。
イエス・キリストも命を賭けて
神の愛(実り)を説きました。

僕は「すべての人は神様になれる『神性』を持つ」と
以前に言いました。

「僕らが神ならば、なぜ犠牲にならなければいけないの?」
「神は尊大なお方で、どうして辱めを受けなければいけないの?」
という意見が出てきそうです。

「でも神様だから人のために犠牲になることができるのだ」と
返答したい。

自己の欲望を消滅させれば、己の魂が輝きだす。
「犠牲的行動」とは、実は魂磨きのことなのです。

(イエスの場合は例外で、あの“磔刑”は“教え”なのです)
(イエスに魂磨きは必要ない。使命を思い出す修業はしたけど)
(“磔刑”とは、魂磨きの喜びを表現したものに過ぎない)

一人の魂磨きの行動が、多くの魂にも響いていく。
お互いそんな行動ができる人間になりましょう。

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