神を想起させたのは「未知」でなく「苦痛」である。今ある「苦痛」である。

「神の誕生は、『未知への恐怖』から脱するための幻想が起源であり、
現代人にもその幻想が洗脳として受け継がれている」

という考えについて。

原初の人類の一人が、生の前と死の後について悩み、恐怖に襲われた。
考えても考えても分からない、誰に聞いても知らないことに、
ついには人智を超えた存在(神)を答えとして持ち出して
『未知』への恐怖を克服しようとした。

まずなぜ彼は「知りたい」と思ったのだろうか?
未知なら未知のままでいいではないか。

またそんなにまでして「知りたい」という欲求は
精神の内にある何が起因して、どのようにして持ち上がってくるのだろうか?

未知である生前・死後は『無』ではないかという思いは必ず脳裏にチラつく。
まさか『無』を知りたいとは思わないだろう。
無いものを知ろうなどという愚かさは彼にはないはずだ。
そこまで原初人はバカではない。

-人智を超えた存在である神-

誕生と死の理由である人生の意味を追い求め、
神にすがりつくほど「知りたい」と思わせる人類の願いはどこからもたらされるのか?

『苦と痛』が真っ先にあるだろう。

我は人であるということに気づけば、
苦痛は避けられない運命を背負っていることに恐怖する。
なぜなら死が身近にあったから。

原初人の死因のトップは飢餓、そして寒さからくる風邪だとされる。
(空腹は寒さを強烈にします。私の経験則です)

家族や集落の仲間がどんどん死んでいくのを彼は見る。
苦しみにうめきながら病する人に「なぜ」が捕えて離さない。

なぜ人は苦しまなければいけないのだ?
苦痛の意味とは何だ?

もし神が幻想だとしよう。
幻想を作ってまで「理由を知りたい」という人間の知恵への渇望。

知恵こそが神であり、
幻想とは知恵の獲得を放棄した人のことであり、
神(知恵)への到達を目指すために、
人類は苦痛の中で挑戦し続ける冒険家なのだ。

そんな知恵など初めからない?
求めるだけ無駄?

そうかもしれない。
が私は求めてしまうのだ、抑制が効かないほどに。
幻想で片づけてしまえという思考の放棄ができなくなっているのだ。
私は幻想ではないから。

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