着せ替え人形なんて腹が立たないか?

『エクスペリメント』という映画を見た。

看守と囚人の役を与えられた一般人が
どんどんその気になっていって…悲劇が…

人間はどんな人間にでもなることができる。
周囲の環境によって。
まさに「朱に交われば赤くなる」だ。

私は2008年7月31日にこう書いている。

『閉ざされた信仰心を開くには、闇を知らなければいけない』

光がなければ闇もない。
闇があるところに光がある。

「闇を否定してはいけない」
「悪を拒絶してはいけない」

『暗黒と闘うのである』

光への信仰心を覚醒させるために
闇の渦巻く心の中に
己の持つ悪を自覚しなければならない。
悪という欲望と対峙しなければならない。

だがいとも簡単に打ち勝てるほど
魔は弱くない。
武器が必要だ。それは何か?
信仰心である。

「私は神である。だから悪・魔に打ち勝つことができる」

このゆるぎのない強い思いが信仰心なのである。

どこかの国でこんな実験をしたそうである。
(ドイツだったかな?)

犯罪者という設定の男が
電気椅子に縛られている。

一般人から無作為に選ばれた被験者は
電気の電圧を操作するレバーを握らせられている。
指示があれば電圧レバーのボリュームを動かす。
「これは刑罰だから」と諭して。
(実際には電流は流れない)

犯罪者は役者で、レバーに合わせて
ワザと悲鳴を上げる。

合図とともにレバーを動かす
被験者の様子を診るという実験だ。

どんな結果が出たか分かりますか?
ほとんどの被験者が指示された以上に
ボリュームレバーを上げていく。

人間の残酷性を暴露した実験だったというわけだ。
(中には大学教授もいたそうだ)
(彼はその実験後にカウンセラーに通うようになってしまったが)

注目すべきことだが、
その実験自体を拒否した一般人がいた!!

「犯罪者に刑罰を」という実験を拒否したのだ。
彼らは皆、宗教上の理由で拒絶したそうです。
(聖書の中でイエス・キリストは
「私はあなたに罰を定めない」と言っている)

自分の中に住まう獣性に対して
信仰心というムチで制御したのだ。

『闇を追い払えるのは信仰心しかない!!』

これがいい証拠だ。
(以上)

環境が要求してくる役割は
環境に応じて変化する。

男なら男、
女であれば女に
子供は子供らしく、
成人ならば大人らしく
貧乏なら貧乏人に
裕福ならば金持ちに
美貌を持てば美人として振る舞うようになる。

我々は、劇を演じる役者だと言っても
言い過ぎではないだろう。

むしろ着せ替え人形のように
中身が虚ろな動物でもあると言えなくもない。

「俺たちは本当に虚ろな存在なのだろうか?」

「風見鶏のようにアチコチと意思も意見もなく、
フラフラと目的のない流れの中で
-嘆き・悲しみ・うろたえ・怖気づく-
そんな卑小な存在なのか、俺たちは?」

違う。
完全に騙されている。
無理もないが、
この世には恐ろしい勘違いが横たわっている。
「人間はアニマルであり、この世は弱肉強食だ」
というバカげた幻想が。

真実は、
私たちは強大で美しい神の分身である。
だから神に相応しい人間にならなければならない。

「どうすれば幻想から目が覚めて、神としての人間が誕生できるのか?」

上の過去記事では
「ゆるぎのない信仰心によって」と言った。
それでは抽象的すぎて解決になっていない。

答えは苦しみである。
苦しんで苦しんで苦しんで、
その先に光が見えてくる。

『神を覚醒させるための苦』

そのために神は地球を創造した。

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