脳死=無だとするならば、苫米地氏の力説する人類愛も無駄。

苫米地氏の
『なぜ、脳は神を創ったのか?』
の本を読んでの感想ですが、
思慮が浅いの一言。
彼の中の脳みそ至上主義を正すために言わせて頂く。

苫米地さんは
「すべてのものは脳が作り出した幻想である」
「よって脳が無くなれば(死んだら)無になる」
と結論付けている。

そして彼は人が幸福になるためのアドバイスをする。
「幻想に洗脳されているのは脳が正体だと早く気付いて、
その洗脳から解放されなさい」
と。

彼のこの幸福論は矛盾をはらんでいる。
この幸福論もまた彼の脳が作り出した
幻想であり洗脳なのだから、
洗脳された人が同じく洗脳された人を
洗脳から解放できるわけがない。
よりよい洗脳を植え付けることは可能だが。

しかしながら脳が機能停止したら(死んだら)
幻想もなくなり洗脳からも解放できる。
洗脳から解放する方法は死ぬことだけだと
答えが導き出せますね。
まあこれは極論だとしても。

「脳死=無」だと信じるのであれば
なぜ彼は人が幸福になるために
第5章に記載されている幸福論を訴えるのだろうか?

死んだら終わりだと言うのに
「他人を幸せにしたい」
という思いはどうして生まれてくるのだろうか?

この本から伝わる彼のメッセージは
人類愛から来ていることは私にもわかる。
私も賛成する部分が多い。
ですが「死=無」だという主張は、
人類愛も無駄ということを意味している。
本にある人間の理想の生き方を懸命に力説しても
無駄なのだという考えになぜ至らないのだろうか。
死んだら何もかも無意味なはずだろうに。

が私は彼に真理を伝える。

脳は我々すべての人間に内在している『魂』が作った。
その魂は死んでも無にならない。
なぜなら魂は神だから。
(神とは真善美であり、愛の大海原です)
死んでも無にならない魂が全人類に等しく在る。
人類愛はそこから発生する。
よって他人を幸せにしたいという思いが生まれる。

なぜ神は脳を備えたヒトやこの地球という物質的世界を創造したか?

魂の修行のため。
肉体という負荷を課すことによって魂が向上できる。
向上できた時、人は感動する。

なぜ魂を向上させるという修行をしなくてはならないか?

絶えず感動を欲する神に貢献するため。
神が神であるために感動を追い求めなければならない。
それは義務でなく『至福』そのもの。

追記:他の方のレビューにある「脳は誰が作ったのか」という問い。
答え:魂。(厳密に言うと魂が脳を支配している。DNAですら)

後記:私は苫米地さんを否定していません。
彼は仏教の研究をしていることから
いずれ私の言うことを理解してくれる日が来ると信じる。

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