「私もあなたに罪を定めない」とイエスは娼婦マリアに言った。

マグダラのマリアが『姦淫の罪』を犯した。
律法学者は彼女を石打ちの刑に処しようかとイエスに尋ねた時、
イエスはこう答える。

「今までに何も悪い行ないをしたことがない者だけが、この女に石を投げるといい」

学者たちは一人また一人と去った。
イエスはマリアに言う。

「誰かがあなたに罪を定めたか(裁いたか)?」
「いいえ」
「では私もあなたに罪を定めない。好きな所へ行きなさい。もう罪を犯してはいけないよ」

今日5月21日『裁判員制度』(陪審員制度)がスタートした。
実際に開始されるのは7月からだという。

※注:これは2009年5月の記事です。

国民の中から無作為に人を選んで『裁判員』にする。
裁判員に選ばれた者はよほどの事情がない限り、
それを拒否してはいけない。
『国民の義務』だから、らしい。

司法機関に私は問う。
愚かな民衆の中にあって
罪を定めることができるほどの“人徳者”がいるのだろうか?
果たして“清廉潔白”な者がどれだけいるのだろうか?
人を裁ける完全なる人間が。
(イエスのような人格者でも裁いたことは一度もない)
もしいたとしても“人徳者”であるがゆえに、
この『制度』を拒否するだろうね。
たとえ刑務所に入れられることになろうとも。

“モハメド・アリ”というボクサーがいる。
僕の最も尊敬するボクサーだ。
彼はベトナム戦争を拒否し、牢獄につながれてしまった。
『国家反逆罪』だ。
それまでのボクサーの経歴やチャンピオンベルトを取り上げられて、
ボクサーライセンスまで取り消された。

アリは言う「ベトナムに文句なんかないよ」
(ベトナム人を殺す理由なんてないよ)と。

アリのこの言葉を拝借させて頂く。

「容疑者を罰するなんて俺にはできないよ」
(あんたはそんなにご立派ですか?)

アメリカでは『陪審員制度』を裁判の本来のあり方として普及されている。
(民主主義の基本は『多数決』だからね)
悲しいかな、アメリカには本物のクリスチャンはいないということだ。

私たち日本人は今、大変な『過ち』を犯そうとしている。
国民全体で『裁判員制度』を“拒絶”しなければならない事態ではないのか。
私は日本が恐ろしい道を選択しているとしか思えてならないのだ。
このブログを通して「裁判員制度は反対だ!!」と叫び続けていくつもりだ。

日本にはこんなすばらしい言葉がある。

「罪を憎んで人を憎まず」

裁く人間こそが牢屋に入って『罪』について考えてみるべきではないのかな。
(僕自身や僕の身近な者に犯罪被害が起きた場合のことは、いずれ書きます)

後記:犯罪者は生きて牢屋の中でしっかり反省させるべきです。

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