7月 102015
 

あなたは自身、幸せでありたいと思う。
だが私は「すべての人間の魂は一つだ」と力説している。
とすると
この苦しみにまみれ、
うごめく人間たちの世界で共に生きるということは、
本当に苦しいことなのだ。
魂が一つであるがゆえに(同苦心を抱く)それは正常なことなのです。
苦しみを異常だと思ってはいけない。
あなたの考える異常は、実は正常・普通なのだ。

ある者は病いに苦痛し、
またある者は失恋に心痛める、
望まれぬ孤児として生まれる者、
過大な期待に添えぬと悩む者、
今日のメシにも事欠く者、
朽ちていく身体にあって若さの記憶に回顧する者、
カネ勘定にひたすら追われる者、

-苦しい
-悲しい
-みじめ
-痛い
-恐い
-寂しい
-つらい
-切ない
(嫌だ嫌だ、やめてくれ!!)

それがこの世の普通ならば、あなたの苦しみは正常の枠内なのだ。
たとえあなたが今幸福の真っ最中にいるのだとしても、 それは逆に異常。
気をつけた方がいい。

「幸福=異常」
「苦痛=正常」

日々をおびえるな。
失うことを恐れるな。

「初めから幸せなど無いと思いなさい」
(偽りの幸福に酔いしれるな)

『苦しみの中を泳ぐこと』
(仏教では遊ぶと言う)

この世界、できれば優雅に泳いでみたいですよね。

4月 172015
 

ミラーニューロンというのは、モノマネ細胞・共感細胞と言われているもので、
簡単に言うと「人間は他人の影響を受けてしまう生物だ」ということです。

http://mote7.com/mirror-neuron.html

仏教のシンボルは『蓮の花』ですが、
それは泥の池の上で咲いていますよね。
水中ではなく。

この現世は、欲望に蠢く人間のグツグツ煮立っている鍋釜のようです。
そこで生きていくのは本当につらく厳しく悲しい。
そこから逃避するために、多くの人間は悪に手を染めて光を見失う。
なぜなら現世とは「思い通りにならない世界(娑婆)」であるから。

もしあなたがこの世界において迷える者たちのために
教え導き、救い上げ、神性を取り戻すのを己の使命とするならば、
強くあれ!!
この悪臭まみれの世界から一段上から輝け!!
神々しい光になれ!!

貫きたい信念はありますか?
ミラーニューロンなど屁とも感じない強靭な意志力を持っていますか?

変えられてしまう人間ならばリーダーは務まらない。

変えろ、変えてしまえ、この時代の人間を。
時代そのものを。

そんな凄味のある人間を時代は待望している。

4月 162015
 

長野広稔(ヒロト)さんのメルマガから発信される内容は、
「固定するな。依存するな。すべては自己責任だ」
ということに尽きる。
(その他の情報も時々)

「なぜ固定(依存)するとダメなのか?」

固定すると幸福になれないから。

例えば誰かが「俺は月収500万円稼いでいる」とする。
もしそれを固定したり、それに依存してしまうと
400万円に落ちた時に慌てる。
250万円の半分になった時にはピンチになり、
100万円なら「俺、終わったかも」と嘆き、
30万円になれば「サラリーマンに戻ったのかよ」と
自分のビジネスそのものを恨むようになる。
どんどん幸福度が落ちていく。

逆に600万円と上がれば幸せか?
一時的に喜びが湧いてくるだけ。
次は700万円だ、いや1000万円の大台だ、よし3000万円なら皆が驚くぞ。
キリがない。
(皆の羨望に依存するのも危険。嫉妬が待っているというのだから)

例えば誰かを好きになるという固定を続けるとしたら。
その誰かは人間なのだから変わってしまうこともあるだろう。
嫌なことを言う、お金をせびってくる、脅してくるとなったら嫌いになってしまう。

「せっかく好きでいたのにどうして、ガッカリよ」

好きと思っていた自分の過去までも嫌なものになる。
その過去は幸福ではなかったということになるからだ。

では、初めから好きでも嫌いでもあるとしたらどうなのか?
(つまり好きという自分を固定しない。相手に依存しない)

相手がどう変貌しようが自分の幸福度は左右されない。
過去を恨むこともない。

「変化が当然のように起こる世界で固定化は無駄なあがき」
「自分以外のものに依存しない。すべて自己責任=幸福の尺度は自分が基準」

これを理解していない人が多いので、
彼を誤解して去っていく者がいる。
それも仕方ないと思って引き留めてはいないが。

実はこれは仏教の世界でも言われていることなのです。

「執着から解放させよ」=「固定するな」
「この世は諸行無常だ」=「自分以外に依存するな」
「自己の内に仏心(神我)を見出せ」=「すべて自己責任」

今やヒロト氏はビジネスも教えている宣教師なのだ。
法を説く者(ホトケ)なのだ。

4月 112015
 

動物愛護団体がミンクの毛皮を着た女優に向かって抗議する。

「よくも抜け抜けとそんな毛皮着れるわね!?」
「いたいけな動物の皮をはぎ取ってかわいそうに」
「自分のエゴのために、何て人なの、恥を知りなさいよ!!」
「あんたがそんなのを着てるから女性がみんなマネするんじゃないの!?」

ミンクとはアメリカに生息するイタチ科の動物。
北海道でも輸入して養殖しているそうだ。

その上質な柔らかい肌触りと軽い着心地で女性のハートをつかんでいる。
(俺も女にプレゼントしてみたいぜ。でも高い)

過激な動物愛護団体の中には薬品をかけて止めさせようとする者もいる。

そんな中でも浩然とミンクのコートを着て(ワニ革のバックもおまけに)
黒いベンツから颯爽と登場するアメリカの女優。

「アンタたちだってダウンのコートを着てるんじゃないのさ」
「牛革のベルトだって。何でそこは抗議しないのよ」
「それにね、アンタたち牛や豚を自分の食欲を満たすために何のためらいもなく食らいついているじゃないの?」
「ミンクだけが特別なのかい?」
「アンタらおかしくって逆に笑えない、フン」

生きとし生ける者の犠牲によって成り立つこの世界。
そのどうしようもない世界を仏教では“娑婆”という。
娑婆の中で生きている我ら。
犠牲者たちに感謝もないのは悲しいことよ。
それこそ人間たちの恥と知りなさい。

『生きるために殺す』(それを“業”と言う)

生きるために命を頂戴する。
生かすために命を布施する。

一時も感謝の心を忘れてはなりますまいぞ。

4月 112015
 

「常が無い=永遠ではない」

この世界にあるもの全てが永遠なもの・ことではない。
だから日本人はそんな世界に対して哀愁を込めて無常とみなす。
(断じて無情ではないよ)

仏教の“諸行無常”から来ている言葉なのだが、
なぜ「無常」が日本人の世界観をそう表してしまったのか。

思うに日本人は女性的感性が強いのだと思う。

この世は過酷で激痛を伴う。
分娩の苦しみにも似た世界とも言える。

だけれども出産には喜びがあるではないか。
新しい生命が誕生し、この世界で生き抜こうと挑戦する魂を持った赤ちゃん。

どんなに我々が苦しくても
隣りで愛くるしく笑っている、
そして泣き顔すらも可愛らしい。

小林一茶
「露の世は、露の世ながら、さりながら」

苦しかったら赤ちゃんのようにワンワン泣けばいい。
俺たちみんな赤ちゃんからスタートしたのだから。

4月 112015
 

あなたは幸せでありたいと思う。
だが私は全ての人間の魂は一つだと力説する。
とすると
この苦しみにまみれうごめく人間たちの世界で共に生きるということは、
苦しいことなのだ。
魂が一つであるがゆえに(同苦)それが“正常”。
苦しみを“異常”だと思ってはいけない。
あなたの考える“異常”は、実は正常・普通なのだ。

ある者は病いに苦痛し、
またある者は失恋に心痛める、
望まれぬ孤児として生まれる者、
過大な期待に添えぬと悩む者、
今日のメシにも事欠く者、
朽ちていく身体にあって若さの記憶に回顧する者、
カネ勘定にひたすら追われる者、

苦しい
悲しい
痛い
恐い
寂しい
つらい
嫌だ嫌だ、やめてくれ!!

それがこの世ならばあなたの苦しみは“正常”の枠内なのだ。
たとえあなたが今幸福の真っ最中だとしても
それは逆に“異常”なのだ。
気をつけた方がいい。

「幸福=異常」
「苦痛=正常」

日々をおびえるな。
失うことを恐れるな。

「初めから幸福など無いと思いなさい」

『苦しみの中を泳ぐこと』(仏教では遊ぶと言う)

できれば優雅に泳いでみたいですよね。

4月 082015
 

決まりだから仕方がない?
だったらお釈迦様はなぜ髪を伸ばしているの?
(釈迦は髪を縛り上げている)
残念ながら日本の仏教は正しく伝わっていない。

そもそも出家するとは一体どういうことか考えてみた。
「俗世間から出ること」これを出家すると言う。
髪の毛があっても別に差支えないではないか。
そうでしょう?

僕なりの出家の考えは、『自己の中に神(愛)を打ち立てる』ことだと思う。

俗世間では神の存在を忘れている、しからばあまりにも軽視し過ぎている。
愛のある言動がないがしろにされ、愛を育もうとする気風が全くない。
そんな俗世間を出て『自己の内に神を確立させる』ことを出家と言うのだ。
もし自己の中に神を自覚できるまでに至れれば、
神(愛)を俗世間で教え諭し広めなければならない。(布教)
この者を法説く者、仏教者と言う。
(僕も仏教者のはしくれだと思っています)

頭を丸めて女を捨てる。
尼僧たちよ、大変な誤解をしているぞ。
(瀬戸内寂聴さん、よく聞いておけ!!)
自然界はオスとメスがあって然るべき世界なのだ。
女を否定するとは、神の創りしその世界を否定することにつながる。
神への反逆罪に等しい。

男は男を放棄するなかれ、女は女を捨てるなかれ。
男女手を取り合って愛を学ぼうぞ。

4月 052015
 

だから私は行きません。
(欲望のオーラにまみれて、心が汚れます)

「今年も健康でありますように」
「~大学に合格できますように」
「今年こそは結婚できますように」
・・・

お頼みごとだけはご立派ですね。
神様に願いごとする前に 自分は神様に対してどんな行動をしたのかな?
していないでしょう?

「困った時の神頼み」は通用しないのです。

普段の生活の中で 神様に喜ばれる心のこもった親切な行ないをしていきましょう。
そうすればあなたの中に住まう神様が、
きっとあなたを善き方向に導く助けをしてくれるから。

『本当の神社はあなたの肉体』

もうすでに毎日毎秒参拝していますよ。

よって『初詣』は行く必要なしです。

3月 292015
 

簡単に言うと
“他力”とは別名“神様”のこと。
“自力”とは別名“人間”のこと。

日本仏教の歴史の中で≪鎌倉時代≫ほど
“他力”か“自力”か、について激しい論争があった時はない。
法然、親鸞、道元、日蓮、明恵など
日本仏教の代表者たちが勢ぞろいした時代でもあった。
(日本仏教が完成した時代でもあるが)

彼らは皆この“他力”と“自力”との間で格闘し
それぞれが後世に偉大な教えを残してくれた。

中世インドでは
“他力”のことを「猫の道」と言い、
“自力”のことを「猿の道」と言っていたそうです。
子猫は母猫に首を噛みくわえられながら運ばれる。
子猿は母猿の体にしがみつきながら運ばれる。
(子猫の方が楽だよね?)
(いや、ジタバタせずにいることも難しいよ)
(母猫に逆らわず“一体化”する行為だから)
(母猫への絶対の“信”がなくてはこうはいかない)

「他力か自力か」という問題は
片方に決められるものではないし、
片方のみだけに首をつっこんでもいけない。
コインの裏表のように切り離せないものだから。
バランスが肝心である。
だが50%と50%の割合などという“数字”で決まるバランスではない。
そこが難しいから皆さん両極端になってしまう。
数学的論理ではないから
議論にならない(してはいけない)ということである。
もちろん他力、自力とも否定してはいけない。

『僕たち“自力”である“人間”は
“神様”という“他力”の保護の下で
“自力”修業させて頂く、だけのことである』
(人間は単なる神の“操り人形”ではない!!)
(“操り人形”ならば人間の未来は決定されていることになるではないか)
(そんな人生なら誰も魂を磨かない。人生に意味がなくなる)

『大きな“他力(愛)”の力に包まれて
“自力(努力)”が実を結ぶ』

ありがたいことである。

僕たちはありがたく“修業”させてもらいましょう。ね?

3月 292015
 

『歎異抄』の一節です。

意味:善人は天国へ行ける。(のなら)
悪人なら尚のこと(当たり前に)天国に行ける。
(上記の言葉は親鸞が説いたものではなく、
親鸞の師匠である法然の言葉だと言われています)

世間一般の方々は
自分を“善人”だとうぬぼれて
己の心に住まう“悪”に気づかないでいる。

「私は今までに人を傷つけたり、殺したりなんてしていない」
「悪いことは何もしていない。清廉潔白だ」
(果たしてそう簡単に言い切れるのだろうか?)

“悪”がなければ“善”もない。
“善”があるところに“悪”がある。
“魔”は誰の心の内にも住み着いているのだ。
(イエス・キリストだけは“魔”を打ち払った!!)

“善人”を気取る僕ら凡夫は、己の“本性”を知らないでいる。
「すべての人間は一皮むけば“悪人”なのだ」というのに。
(なぜ“偽善者”と言わずに“善人”と言ったの?)

それとは逆に刑務所の囚人は、自分は“悪人”だと自覚している。
(まるで獣のような無自覚な方もいると思いますが)
“悪人”だと強烈に自覚しているからこそ
“善なる光”を求める心が生まれる。
“神”にすがるしかないという強い決意が芽生える。

“神様”の許しを必死に追いすがる人間と、
自分は“善人”だからといって“犯罪者”を煙たがり、
無理解、無関心でいる(“神”に対する意識が足りない)人間と、
どちらに幸福が約束されるのか、考えてほしい。

『“悪”すらも“神”は許容し救い摂ろうとする』

自身の“悪”を徹底的に凝視し、それから逃避しなかった親鸞は、
それだからこそ“アミダ様”を求める気迫が誰よりも強いと言える。
生涯を通して布教したのもこれが原動力であろう。
こんなに“悪”を認識し、居直ったのは日本人では彼くらいではないか。
日本仏教界で果たした親鸞の功績は極めて大きいだろう。

追記:『アミダ』とはアミターバ(大いなる光)
アミターユス(大いなる命)のアミタから来ている。
『無量寿光』とも言う。