2月 062016
 

「魂は不滅」「輪廻転生」「カルマの法則」

これが万人に理解されることはあるのか?

今世紀でも無理だと思いますよ、一人さん。
人間はそれほど愚かなんです。
何回も生まれ変わって学ぶしかない。
人が必要とされる学びができる環境へと、何度も。

俺はあと何回生まれ変わらなきゃいけないのかな。
不完全な俺がイエスみたいな偉大な人間になるのに。
キツイよ。
でもがんばる。
応援よろしくお願いします。

7月 102015
 

彼の説く芸術3原則
・芸術はきれいであってはならない
・うまくあってはならない
・心地よくあってはならない

『芸術=人生』と彼はみなす。

とすると
人生は破天荒であるのがいいということなのか。
レールの敷かれた人生やサラリーマン的な人生は全然ダメだと。

確かに自分の欲望の声を抑えつけ、
世間様の言いなりになるのは生きていてもまるで死んでいるようだ。
体裁ばかりにこだわってスマートに生きようとする。
条件は何だと相手に要求し、打算的に生きるのは現在の我々だ。
それではちっとも心が熱くならない。
生きている自分と対峙できていない。
つまらない。

【無条件という毒】(劇薬かもしれない)

その毒が体中を駆け巡り、
あなたの人生を侵し始める。

思考はいつしか宇宙の絶対的存在に向かって訴える。
「俺は自分の人生を生きるんだ!!」

・地位・名誉・お金・仕事・平凡な家族…

「何もかもすべて投げ打って裸の自分に挑戦してみないか?」

-むき出しの自分。
-漂白された精神。
-死の壁すらも微笑ましい。
-明け放たれた空間に横たわる畏怖。
(おお、言いかえればそれはつまり『絶対神』のことだよ)

そうすればきっとあなたの心奥に新しい力が湧き起こるはずだ。
皆さん、自分の人生を静かに見つめてみよう。
明日が新しい自分のスタートになれればいいですね。

4月 252015
 

イエス・キリストも
釈迦も
孔子も
マホメットも
みんなお金を取っていないでしょう?
お金が必要な宗教なんて宗教じゃない!!

簡単に言えば
宗教とは「感謝の心で生きること」
それだけ。

訳の分らんことを言ってお金を出させる奴は詐欺師です。
気をつけて下さい。

後記:法外な金額をふっかける奴らのことです。
運営にも資金が必要。
わずかなお金ならご勘弁を。

4月 242015
 

我々は人間は完全でも不完全でもない。

なぜならゲーテも言っているように

「その種を完全とするものは、その種を超越する」

つまり完全というものは無いのです。
完全が無いということは、対義語である不完全も無いのである。

では人はどんな存在なのか?

『ぶっちぎり』の存在である。

完全と不完全という概念をぶっ壊す『ぶっちぎりの矢』そのものである。

『ぶっちぎりの矢』が心臓を貫き、時空間を超えて飛んでいく…

そこに何が在るのか?

光か? 闇か?

否、光と闇は二言論であり、
二言論は成立しないのである。
なぜなら完全不完全が無いからである。
(二元論なんてクソ喰らえ!!)

答えは『至福』である。
(対義語が見つからない。誰か知ってたら教えて下さい)

ぶっちぎりの矢そのものである人間は、
ただ至福の中をドンブラコと揺られているのである。
「いい湯だな♪」と。

以上の思考から導き出される答えは、

「人間はそのままでいい」

ということだ。

4月 222015
 

柔道の吉田沙保里さんの父が亡くなったそうです。

ですが私は言っている。
「魂は不死であるので死んでいない。在り様(状態)が変わるだけだ」と。

なのに「なぜ彼女は泣く必要があるのか?」

無理もない、柔道一直線だから考えることもなかっただろう。
死とは何かを。

私が教えよう。
我々が心肺停止という判断で死んだとされているのは
肉体の死であって、魂の死ではない。
その魂は肉体から抜け出て、魂の故郷へ向かう。
皆死ねばそこへ逝く。
そして両者の合意があればいつでも会える。
魂の感応を通じて。
だから父親が死んだのは魂が肉体から離れただけのことであって、
父親の魂はしっかり在る。視えないだけだ。

「父親が魂としてしっかり生きていること」

それが分からないということはそれこそ死んでいる状態だ。
さぞや父親も娘が心配だろう。

悲しいかな、現代人は物理がすべてだと思っているからそう考えてしまう。
不死なる魂があるということに気づかないことの方が死なのに。

「気づきなさい、我らは魂(霊魂)という存在であることを」

追記:柔道ではなくレスリングでしたね。興味はありません。寝技以外は。

4月 212015
 

苫米地氏の『なぜ、脳は神を創ったのか?』の本を読んでの感想ですが、
思慮が浅いの一言。
彼の中の脳みそ至上主義を正すために言わせて頂く。

苫米地さんは
「すべてのものは脳が作り出した幻想である」
「よって脳が無くなれば(死んだら)無になる」
と結論付けている。

そして彼は人が幸福になるためのアドバイスをする。
「幻想に洗脳されているのは脳が正体だと早く気付いて、
その洗脳から解放されなさい」
と。

彼のこの幸福論は矛盾をはらんでいる。
この幸福論もまた彼の脳が作り出した幻想であり洗脳なのだから、
洗脳された人が同じく洗脳された人を洗脳から解放できるわけがない。
よりよい洗脳を植え付けることは可能だが。

しかしながら脳が機能停止したら(死んだら)
幻想もなくなり洗脳からも解放できる。
洗脳から解放する方法は死ぬことだけだと答えが導き出せますね。
まあこれは極論だとしても。

「脳死=無」だと信じるのであれば
なぜ彼は人が幸福になるために
第5章に記載されている幸福論を訴えるのだろうか?

死んだら終わりだと言うのに
「他人を幸せにしたい」という思いはどうして生まれてくるのだろうか?

この本から伝わる彼のメッセージは
人類愛から来ていることは私にもわかる。
私も賛成する部分が多い。
ですが「死=無」だという主張は、
人類愛も無駄ということを意味している。
本にある人間の理想の生き方を懸命に力説しても
無駄なのだという考えになぜ至らないのだろうか。
死んだら何もかも無意味なはずだろうに。

が私は彼に真理を伝える。

脳は我々すべての人間に内在している『魂』が作った。
その魂は死んでも無にならない。
なぜなら魂は神だから。
(神とは真善美であり、愛の大海原です)
死んでも無にならない魂が全人類に等しく在る。
人類愛はそこから発生する。
よって他人を幸せにしたいという思いが生まれる。

なぜ神は脳を備えたヒトやこの地球という物質的世界を創造したか?

魂の修行のため。
肉体という負荷を課すことによって魂が向上できる。
向上できた時、人は感動する。

なぜ魂を向上させるという修行をしなくてはならないか?

絶えず感動を欲する神に貢献するため。
神が神であるために感動を追い求めなければならない。
それは義務でなく『至福』そのもの。

追記:他の方のレビューにある「脳は誰が作ったのか」という問い。
答え:魂。(厳密に言うと魂が脳を支配している。DNAですら)

後記:私は苫米地さんを否定していません。
彼は仏教の研究をしていることから
いずれ私の言うことを理解してくれる日が来ると信じる。

4月 192015
 

「神の誕生は、『未知への恐怖』から脱するための幻想が起源であり、
現代人にもその幻想が洗脳として受け継がれている」

という考えについて。

原初の人類の一人が、生の前と死の後について悩み、恐怖に襲われた。
考えても考えても分からない、誰に聞いても知らないことに、
ついには人智を超えた存在(神)を答えとして持ち出して
『未知』への恐怖を克服しようとした。

まずなぜ彼は「知りたい」と思ったのだろうか?
未知なら未知のままでいいではないか。

またそんなにまでして「知りたい」という欲求は
精神の内にある何が起因して、どのようにして持ち上がってくるのだろうか?

未知である生前・死後は『無』ではないかという思いは必ず脳裏にチラつく。
まさか『無』を知りたいとは思わないだろう。
無いものを知ろうなどという愚かさは彼にはないはずだ。
そこまで原初人はバカではない。

-人智を超えた存在である神-

誕生と死の理由である人生の意味を追い求め、
神にすがりつくほど「知りたい」と思わせる人類の願いはどこからもたらされるのか?

『苦と痛』が真っ先にあるだろう。

我は人であるということに気づけば、
苦痛は避けられない運命を背負っていることに恐怖する。
なぜなら死が身近にあったから。

原初人の死因のトップは飢餓、そして寒さからくる風邪だとされる。
(空腹は寒さを強烈にします。私の経験則です)

家族や集落の仲間がどんどん死んでいくのを彼は見る。
苦しみにうめきながら病する人に「なぜ」が捕えて離さない。

なぜ人は苦しまなければいけないのだ?
苦痛の意味とは何だ?

もし神が幻想だとしよう。
幻想を作ってまで「理由を知りたい」という人間の知恵への渇望。

知恵こそが神であり、
幻想とは知恵の獲得を放棄した人のことであり、
神(知恵)への到達を目指すために、
人類は苦痛の中で挑戦し続ける冒険家なのだ。

そんな知恵など初めからない?
求めるだけ無駄?

そうかもしれない。
が私は求めてしまうのだ、抑制が効かないほどに。
幻想で片づけてしまえという思考の放棄ができなくなっているのだ。
私は幻想ではないから。

4月 192015
 

20世紀の悪人の一人としてアドルフ・ヒトラーが挙げられる。
ですが彼は悪人ではありません。
なぜならもし彼が悪人であるならば、
彼を支持した当時のドイツ国民も悪人であり、
同じ悪人が彼は悪人だと蔑んでいるのは愚の骨頂です。
(ドイツの子らが悪に加担した親から教育を受けていますので、
ドイツでの犯罪は減っていないと思います。非を認める勇気を持ってほしい)

私は日本人です。
日本史には多くの戦争が起こったとあります。
私は彼らの血を引いていますし、
その悪の歴史の中でこうして日本人として生きることができています。

『人類すべて悪に関わらない人はいない』『人間とは犯罪者である』

ですが私は人類は悪ではないと主張させて頂こう。
なぜなら悪と思われる行為は反省点であり、
乗り越えるべき課題であり、
自分に足りない部分だから、
悪は反面教師と言えるでしょう。
つまり悪は必要であると。

「ならば我らの成長の為には、
悪を成すヒトラーのような人間が必要であり、
虐殺された人間も必要になるのか、ということなのか?」

違います。
悪は我らの心に内包されており、突如として狂犬のように飛び出てくるのです。
自身に潜む悪を抑制し退けるのです。
それに打ち克つ力を養うのです。
絶えず試されているのですよ、あなたの善なる力が成長しているかどうかを。

もし悪人ヒトラーのような人間を見つけたら
我々は『愛』の力でより善き方向へと彼を導かなければなりません。

そしてその力は自身の子供においても当てはまります。
ヒトラーにも子供時代がありましたし、
赤ちゃんの時は皆かわいい無垢なる存在でした。

「ではなぜ人は悪に加担し、犯罪へと流れ、染まり、悪の権化と化すのでしょうか?」

『人はすべて愛という神であり、それは一つのものなのだ』
という真理を理解していない人が多いからです。

「私は動物であり、快楽をむさぼる獣であり、虚無の中を生きている哀しい生物」

それが人間であると勘違いをしている人が多いからです。

「なぜ勘違いがあるのか?」

人は自由であるからです。
創造主の奴隷ではないからです。
勘違いを起こしても許されている大いなる自由を与えられているのです。
神は束縛などしません。

「その自由を支えているものがある。何か?」

責任である。
自由の中で「勘違い」を自らが選択した自身の責任において、
それが是正される課題が提出される。来世にて。
責任を持つということは依存の世界であるこの世からの自律である。
神は神において自律主体であるから、責任とは感謝すべきものなのです。
(難しい?)

最後に私がヒトラーの霊魂に送る愛の言葉です。
「ヒトラーは悪ではなく、勘違いをしてしまった弱者であり、愛を学ぶためにまた輪廻再生して下さい」

神はどんな人をも見捨てません。

4月 182015
 

「人生に意味なんてない。生きることと死んでいることは同じだ!!」

などと勢いよく叫んだとしても、
その後から何だか虚しさがスーっと湧き上がって切なくなる。

生まれる前も無、死んだ後も無であるとしたら、
一体私の人生とはどんな意味を持つというのだろうか?

もし人生とは無(無意味)であると決定したとする。
とたんに我々は何てみじめで哀れな存在に成り果ててしまうことだろう。
だが我々はどうしたわけか自身の内に“崇高なるもの”を求めようとする。

「人生に目的はない。人の存在は無意味であり無価値であり、生きることは讃えも慰めも全く通用しない」

これが真実なのだと結論づけをしたとしても
なぜ我々は“求める”があるのだろう、結論を出したというのに。
無なのだから、求めることは何の意味もなさないではないか。

果ては無である人生を生きた先に何かがあるというのか?
それは何だ?
なぜ無だと結論を下したはずなのに、なぜその“何”を求める?
そもそも求めている自分はどんな源泉があって“求める”が湧きだすのか?
結論という判決を言い渡す自分が生ぬるく、未練がましくも幻想を持ちたいのか?
それならばその幻想はなぜ脳にこびりついているのか?
あまりにも冷酷な無という事実から逃避したいのか?
逃げ出したいなら自殺を選べばいい。
(確実にその先に苦は無いであろう。肉体がないゆえ)
だが我々は求める。よりよくあろうと欲する。
なぜだ?
死という無を飛び越えようと必死にもがき生きようとする原動力。
そのエネルギーはどこから生み出され補給されるのか?
生物ゆえの脳機能が生存本能をむき出すのか?
生物の本能は死を超越したものであり、
生きる本能はあらゆる幻想を作り出し洗脳として埋め込むのか?
生きるということは幻覚という嘘か?
なぜそんなにまでして幻覚を体験しなくてはいけないのか?
嘘の中に生きなければならない理由をどんな土台が支えているのか?
土台そのものでさえ、洗脳の力により建造されたのか?
人類史を歩ませるために。
ならばなぜ人類は人類のストーリーを永続させなければならないのか?
終わりであってもいいではないか、幻想ならば。
だが子は産まれ、子孫は紡がれていく。
連綿と続く人類史は徒労という蚊の力でこんなにもダイナミックに動いていくのか?
徒労が歴史を引っ張るというのか?
それは引っ張ることができる力を本当に有しているものなのか?
何が我らを生へと繋ぎ止めるのか?
生きねばならぬと。

私がやっとたどり着いた答えを書き残そう。
今を生きる者のために。
人(人生)は、幻想でも幻覚でも嘘でも洗脳でもない。
徒労など初めからない。
人は不滅の魂であり、神の一部であり、愛の化身である。
我らすべては神を求め生きている。
過ちを踏み越えて、更なる至高へと目指しながら。

脳科学者は私をこう斬るであろう。
上記の連打する問いはそもそも前提として脳の仕業であり、
解を求めて悩み苦しむ私はナンセンスだと。

本当に私は愚なのか?

否、私は真理を公言する愚者である。