4月 172015
 

(注:2014年2月21日の記事です)

反政府デモ隊と治安部隊が衝突。
銃による死傷者も出てしまった。

キエフの中心地で働いている知人の青年には
実家のドニエツクに帰るようにアドバイスしておいたがどうなのか。

下の写真を見ると
関係のない一般人まで被害が出ている。

国家の幸福を想うのならば、なぜ銃を持つ?

「剣を取る者は剣によって滅ぼされる」とイエスは言った。

『他者への理解は至難の道』

何回も生まれ変わって気づく時が来ることを祈ろう。

4月 162015
 

斎藤一人氏の弟子が何人いるのか知らない。
ファンは多いと思うが、直に教訓を受けている人は数百人だろう。

彼の愛弟子たちは会社を経営していたり、
本を出して作家になったりと、
この世での成功を一応は手にしたようです。

ですがその成功はすべて
斎藤一人氏のネームバリューによるものです。
それがなかったら凡人かつ無名で終わっただろう。
本なんて100冊売れるかどうか。
彼らはそれを分かっているのだろうか?
「斎藤一人がいなかったら俺なんかペイペイだな」と。
謙遜があるはずだろうから、それくらいは熟知していると思うがどうか。

「師から独立しなさい。そして一人流の教えをもっと流布しなさい」

「弟子を自立させなさい。教育者の目的は甘やかすことではない」

イエス・キリストの弟子たちは彼の死後、
(磔刑で死んでいないという諸説あり)
世界各国で布教しました。
多くは殉教しました。
(商売の世界で殉教はないが、殉職はあるかもしれません)
あんな弱虫たちがなぜあんな情熱家になったのか。
イエスも生まれてきた甲斐があったと思う。

私はここで仕事のために死ねと言っているわけではありませんよ。
バックなしで自分の力を試してみてほしいと言うだけ。

芸能人の子供は大変なプレッシャーがある。
親の七光とか何とか。
それにもめげないで頭角を表す人もいる。
人一倍の頑張り屋さんでしょう。

師が死んでも弟子がいる。
師の教えは弟子によって受け継がれていく。
優秀な弟子を持った師は気持ちいいものです。
たくましく育った姿を見るだけで。

4月 132015
 

十字架を担ぐイエス・キリスト。
裸にされ、羞恥と罵詈と嘲笑の中を歩むその姿から、
私はどうしてもあなたが“楽しんで”その運命を受け入れているように思える。
苦しくないのでしょうか?

蝿のたかる便所の中に堆積する糞尿。
汚物入れの中の使用済みナプキンに染み込んだ下血。
道端にへばりついた精子入りの破れたコンドーム。

それでも我々はここで生きなければならない。
何と切ないことだろう。
もういっそ止めにしたい。

…智慧ある賢者がこう言って励ます…

生きることは楽しいことなのですよ。
どうしてって、生きなければ経験ができないのだから。
経験がなければ理解することはできない。
理解のないところに愛は生まれないのです。
愛の実践ができるこの世界で、あなたの愛の深度を深めましょう。
私たちはいつもあなたを見守っていますよ。
(…)

見えない神秘の力で私を助けて下さい。
心折れそうな時に。

4月 132015
 

イエス・キリストはなぜ十字架を受け入れたか?
という疑問に僕はこう考えている。

【憎む=関心が高い(無関心ではない)→理解できなくて苦しい→苦しいから“救いの手”を切望する】

聖書では、救いを求める人を「貧しき者」とする。

…貧しき者は幸いである。天国は彼らのもの…と。

異質なものに拒絶反応せずに
化学反応を起こさせて
自己の『魂』を磨きたいですよね。

4月 102015
 

「日本人よ、田舎に住んで自然と触れ合う生活を」という革命提言は、
『トトロ』ですべて伝えたはずだ。

それを観た誰かが感動して
一人でも実際に田舎へ引越しをした人がいるだろうか?
(『トトロ』は大人向けの映画だと思う)

おそらくいないな。
(いたらコメントをお願いします)

トトロ革命は失敗だった。残念!!

しょせんアニメだ、という限界。
いや文学や芸術というものは人を動かすほどのパワーは小さいかもしれない。
悲しいがそれが現実です。

≪人を感動させ行動をも変えること≫

イエスのように罵倒され唾棄され鞭打たれ、
挙句に十字架でさらしものにされ、
杭で血を流すくらいでないとダメかな?
革命には血を伴なうという…

4月 092015
 

楽しんでいい。喜んでいい。幸せになっていいのだ。
がむしゃらに求めてみよ。
神はそれを拒まない。

“希望”

その心さえ失ってしまったら、もはや人間ではない。
我々は人間だよ。
イエスも「Rejoy(喜べ)!!」と言っているではないか。

「死は無であり、人生とは何の価値もない、生きることは無意味だ」と嘆く人がいる。
(若者の死亡原因の1位は自殺だという)
もしそれを信じるならば、あなたはあなたをあきらめなさい。
神と同じく私もそれを拒まない。

でも少し待ってほしい。
「仮にそれが愚かでつまらぬ浅はかな偽りの通説だとしたらどうだろう?」

あなたは寿命を終える。
死より肉体から離れ、“霊魂”と呼ばれる解放された自己を見出した時驚愕する。
そしてあなたは後悔する。
「なぜ無意味に人生を送ってしまったか」と。

この世は我々の魂の浄化試練場。
生きてみよ!!
そしてあなたがあなたであることに、喜べ。

4月 092015
 

『手紙』という邦画を観た。

弟想いの兄が金目当てに強盗殺人を犯してしまう。
服役中のそんな兄と主人公である弟が、文通で交流をしている。
殺人者の家族ということで何かと世間からの嫌がらせを受け、
大学進学をあきらめ、職を転々としている毎日だ。
情熱を傾けて頑張る「お笑い」の世界で登りつめるが、
兄が殺人者という事実が起因し夢半ばにして挫折する。
好きだった女性とも互いの意思を確認できないまま破局する。
彼の数少ない理解者の一人と結婚し娘を儲けるが、
その娘も仲間はずれにされてしまう。

「全部兄貴のせいだ!」

弟は絶縁の手紙を出し、殺された被害者の家族と会って許しを請う。
6年間毎月欠かさず兄から届く手紙を持ち出した被害者の息子は、
兄からの最後の手紙に「私の存在がある限り罪はなくならない」という文を読み、

「手紙は彼にとっての“般若心経”なんだ」
「もうこれで忘れよう許そうと思う」

弟もまたたった一人の肉親である兄を見捨てることができず、
長いこと面会していない兄のために
刑務所に出向いて慰安で「お笑い芸」を披露する。
弟に許された兄は手を合わせ感涙する。

家族とは自分の十字架です。
血縁は偶然ではなく魂の約束なのです。
家族を通して魂を磨き合おうと誓いあったのです。

『十字架を手放すな、逃げるな、拒絶するな!!』

イエスは十字架を決して手放さず、それから逃げもしなかった。
自分の未来に《磔刑》という侮辱と苦痛が待ち構えていることを知りながら。

作家の安部譲二さんの母は刑務所に入っている息子に言います。
「あなたがここに入ったおかげで、私はこのような世界を学ばせて頂いたんだよ」
これを聞いた安部さんはヤクザから足を洗う決心をしたそうな。

犯罪者を持つ家族の皆さん、
同じ血のつながった家族をどうか見捨てないで下さい。
罪とは何か、罰とはどんなことなのか、
真摯に考えるきっかけを与えてくれたじゃありませんか?

法を犯した罪人。
壁に仕切られ社会から隔離された牢獄。
もう消し去ることのできない罪の刻印。

僕らの中で果たして罪を糾弾する資格を持つ者がどれだけいるのかな?
あのイエスでさえも罪を定めなかったほどなのに。

4月 072015
 

マグダラのマリアが『姦淫の罪』を犯した。
律法学者は彼女を石打ちの刑に処しようかとイエスに尋ねた時、
イエスはこう答える。

「今までに何も悪い行ないをしたことがない者だけが、この女に石を投げるといい」

学者たちは一人また一人と去った。
イエスはマリアに言う。

「誰かがあなたに罪を定めたか(裁いたか)?」
「いいえ」
「では私もあなたに罪を定めない。好きな所へ行きなさい。もう罪を犯してはいけないよ」

今日5月21日『裁判員制度』(陪審員制度)がスタートした。
実際に開始されるのは7月からだという。

※注:これは2009年5月の記事です。

国民の中から無作為に人を選んで『裁判員』にする。
裁判員に選ばれた者はよほどの事情がない限り、
それを拒否してはいけない。
『国民の義務』だから、らしい。

司法機関に私は問う。
愚かな民衆の中にあって
罪を定めることができるほどの“人徳者”がいるのだろうか?
果たして“清廉潔白”な者がどれだけいるのだろうか?
人を裁ける完全なる人間が。
(イエスのような人格者でも裁いたことは一度もない)
もしいたとしても“人徳者”であるがゆえに、
この『制度』を拒否するだろうね。
たとえ刑務所に入れられることになろうとも。

“モハメド・アリ”というボクサーがいる。
僕の最も尊敬するボクサーだ。
彼はベトナム戦争を拒否し、牢獄につながれてしまった。
『国家反逆罪』だ。
それまでのボクサーの経歴やチャンピオンベルトを取り上げられて、
ボクサーライセンスまで取り消された。

アリは言う「ベトナムに文句なんかないよ」
(ベトナム人を殺す理由なんてないよ)と。

アリのこの言葉を拝借させて頂く。

「容疑者を罰するなんて俺にはできないよ」
(あんたはそんなにご立派ですか?)

アメリカでは『陪審員制度』を裁判の本来のあり方として普及されている。
(民主主義の基本は『多数決』だからね)
悲しいかな、アメリカには本物のクリスチャンはいないということだ。

私たち日本人は今、大変な『過ち』を犯そうとしている。
国民全体で『裁判員制度』を“拒絶”しなければならない事態ではないのか。
私は日本が恐ろしい道を選択しているとしか思えてならないのだ。
このブログを通して「裁判員制度は反対だ!!」と叫び続けていくつもりだ。

日本にはこんなすばらしい言葉がある。

「罪を憎んで人を憎まず」

裁く人間こそが牢屋に入って『罪』について考えてみるべきではないのかな。
(僕自身や僕の身近な者に犯罪被害が起きた場合のことは、いずれ書きます)

後記:犯罪者は生きて牢屋の中でしっかり反省させるべきです。